モーツァルト
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756年1月27日 - 1791年12月5日)はオーストリアの都市であるザルツブルクに生まれ、35才という若さでウィーンで没しました。ハイドン、ベートーヴェンらとともに古典派と呼ばれています。
人類史上に残る大天才とも言われていて、数々の天才ぶりを示すエピソードが残されていますが、それと同時に彼の生涯も謎に満ちたものであるようです。
スポンサード リンク
作曲家略歴
父・レオポルトは息子が天才であることを見出し、幼少時から音楽教育を与えました。神童ぶりを披露するためにウィーン、パリ、ロンドン、およびイタリア各地に大旅行を行い、就職先を求めましたがどこの宮廷でも就職活動に失敗。
1781年、25歳のモーツァルトはザルツブルクを出てウィーンに定住。フリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、レッスン、楽譜の出版などで生計を立てました。ウィーンではピアニストとして人気を誇りましたが、晩年までの数年間は収入が減り、借金を求める手紙が残されています。
1791年、ウィーンでレクイエムの作曲中に35歳の若さで没しました。
天才伝説と様々な謎
その1
35才という若さで没しながら膨大な量の作曲を残し、しかも残された楽譜はまるで清書したかのような迷いのない、きれいなものであるらしいです。生きている時間から考えてもとても考えにくいことだそうです。
その2
多くの音楽家が譜面に書き起こそうと試みた門外不出の教会のミサ曲、何回も教会に足を運んで試みるもその複雑な曲を譜面に書き起こすのは困難を極めた。しかしモーツァルトは1回聴いただけでその譜面を書き起こしてしまったらしい。
その3
超売れっ子の作曲家として収入もかなりのものだったようだが、浪費を繰り返す破綻した生活により家計は火の車だったらしい。結局は借金まみれの、現代で言うと小室○也みたいだったそうだ。
その4
死因もよく分かっていない。ウィーン市の公式記録では「急性粟粒疹熱」とされているが、実際の死因は「リューマチ熱」であったと考えられている。しかし、ポークカツレツの豚肉の寄生虫によって死んだとか、モーツァルトを憎む者がポークカツレツに毒をもったとかいう説もある。
その5
彼の遺骨は行方不明である。多額の借金を残して亡くなったモーツァルトの債権者が怒り、ウィーン郊外のサンクト・マルクス墓地の共同墓穴に埋葬されたようだが、誰も霊柩車に同行することを許されなかったために実際に埋葬された場所は分からないらしい。
このように生涯にも謎が多い大天才だったわけです。しかも彼が残した音楽には病気の治癒効果があるとか、脳が活性化するとか不思議なこともあり、現代においても謎を問いかけ続けているようです。
モーツァルトの謎の生涯を描いた映画もおもしろいです↓
かつて皇帝の寵愛を受けた音楽家サリエリが自殺を図る。病院に収容された彼は、彼の人生のすべてを変えてしまったひとりの天才・モーツァルトの生涯を語り始め・・・。若くして世を去った天才音楽家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの謎の生涯を、サリエリとの対決を通して描いた話題作。
聴いたことあるあるリスト(★は聴いたことある度)
- トルコ行進曲(ピアノソナタ第11番第3楽章) ★★★★★
- アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク ★★★★★
- 交響曲第25番第1楽章 ★★★★☆
- 交響曲第39番第1楽章 ★★★★☆
- レクイエム ★★★★☆