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ラフマニノフ

ラフマニノフ

セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ(1873年4月1日 - 1943年3月28日)はロシアの作曲家でピアニスト、または指揮者。


ラフマニノフはロシアのロマン派音楽を代表する作曲家(遅れて来たロマン派とか言われることもある)で、彼の作品は伝統的な調性音楽の枠内で書かれており、ロマン派的な語法から大きく外れることはありませんでした。


そのため甘美でロマンティックな叙情を湛えた作品の数々は一般的な聴衆からは熱狂的に支持された一方で、批評家や一部の演奏家からはその前衛に背を向けた作風を保守的で没個性的と見なされ、酷評されることが多かったようです。この傾向は作曲家の没後も続き、曲が評価されるまでには相当時間がかかったようです。


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生い立ち、挫折と成功への軌跡

父母ともに裕福な貴族の家系の出身で、父方の祖父はジョン・フィールドに師事したこともあるアマチュアのピアニスト。しかしラフマニノフが生まれた頃には一家はすでにかなり没落していたらしいです。4歳からピアノのレッスンを受けるも9歳の時に一家は破産、しかし音楽の才能を認められ、奨学金を得てペテルブルグ音楽院に入学。ところが12歳の時には全ての学科の試験で落第する、かなりの不良学生だったそうです。


その後は1891年に18歳でモスクワ音楽院ピアノ科を首席で卒業、翌年にモスクワ電気博覧会で前奏曲嬰ハ短調を初演。この曲は熱狂的な人気を獲得。


しかし1895年に交響曲第1番を完成させ、2年後の1897年にはアレクサンドル・グラズノフの指揮によりペテルブルクで初演されたが、これは記録的な大失敗となった。この失敗によりラフマニノフは神経衰弱ならびに完全な自信喪失となる。


ラフマニノフの作曲家としての成功に決定的に寄与したのは、彼を心配した周囲の人たちの紹介で出会った精神科医のニコライ・ダーリだった。アマチュアのヴィオラ奏者でもあったダーリは彼に「あなたは素晴らしいピアノ協奏曲を作る」という暗示療法を行い、ラフマニノフは徐々に自信を取り戻していったということです。


やがて創作への意欲を回復したラフマニノフは1900年から翌年にかけて2台のピアノのための組曲第2番とピアノ協奏曲第2番という二つの大作を完成させた。特にダーリに献呈されたピアノ協奏曲第2番は作曲者自身のピアノとジロティの指揮により初演され、大成功を収めた。この成功によってラフマニノフは大作曲家としての地位を確立することとなりました。


1917年12月、ラフマニノフは十月革命が成就しボリシェヴィキが政権を掌握したロシアを家族とともに後にし、スカンディナヴィア諸国への演奏旅行に出かけたが、その後アメリカに渡り、そのまま彼は二度とロシアの地を踏むことはありませんでした。1943年3月28日、癌のためビバリーヒルズの自宅で死去しました。


批評に神経質

かなり人の意見に神経質になる性格だったらしく、当時としては交響曲第2番も「長すぎる」と批判され、短縮バージョンを作ってしまうなんてこともありました。しかし後に、巨匠アンドレ・プレヴィンによって完全バージョンが演奏されると曲も再評価され、完全バージョンが演奏されることが普通になりました。時代の流れとはなんとも皮肉ですね。


作曲家略歴

作曲家略歴
1873年 ノヴゴロド州セミョノヴォに生まれる
1891年 モスクワ音楽院ピアノ科を首席で卒業
1895年 交響曲第1番を完成、2年後初演失敗
1900年 ピアノ協奏曲第2番など大作を完成
1902年 従妹のナターリヤ・サーチナと結婚
1904年 1906年初めまでボリショイ劇場の指揮者を務めた
1907年 交響曲第2番完成、初演で熱狂的な称賛を得る
1909年 ピアノ協奏曲第3番を作曲
1913年 1月〜4月にローマに滞在、合唱交響曲『鐘』を作曲
1917年 スカンディナヴィア諸国への演奏旅行に出かけた
1918年 アメリカに渡り、以後は主にコンサート・ピアニストとなる
1925年 ヨーロッパでの演奏活動も再開
1931年 スイスのルツェルン湖畔の別荘へ住む
1942年 カリフォルニア州のビバリーヒルズに移住
1943年 癌のためビバリーヒルズの自宅で死去


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