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ワーグナー

ワーグナー

ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(1813年5月22日 ライプツィヒ - 1883年2月13日 ヴェネツィア)はドイツの作曲家または指揮者。ロマン派歌劇の頂点として「歌劇王」の別名で知られています。また理論家、文筆家としても知られ、音楽界だけでなく19世紀後半のヨーロッパに広く影響を及ぼした中心的文化人の一人です。




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作曲家略歴

1813年 ドイツ・ライプツィヒに生まれる
1831年 18歳の時にライプツィヒ大学に入学
1833年 ヴュルツブルク市立歌劇場の合唱指揮者になる
1836年 女優のミンナ・プラーナーと結婚
1839年 パリへ夜逃げする
1842年 ドイツに帰り、歌劇を上演して注目される
1845年 「タンホイザー」を作曲
1848年 「ローエングリン」を作曲
1849年 ドイツ三月革命に参加、失敗してスイスへ亡命
1859年 「トリスタンとイゾルデ」を作曲
1864年 追放令が取り消され、ドイツへ帰国
1865年 再びスイスへ退避
1866年 ワーグナーの正妻ミンナが病死
1867年 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を作曲
1870年 コジマと再婚
1872年 ドイツ・バイロイトへ移住
1874年 「ニーベルングの指環」を作曲
1882年 舞台神聖祝典劇「パルジファル」を完成
1883年 ヴェネツィアへの旅行中に亡くなる



問題のある人格とその生涯

彼が生まれたワーグナー一家は音楽好きで、家庭内で演奏会などをよく開くなど幼児から音楽に親しみ、リヒャルトの兄弟の多くも音楽で身を立てていました。特に一家とも親交があった作曲家ウェーバーから強い影響を受けました。ウェーバーは若きワーグナーにとって憧れの人で、生涯敬意を払い続けた数少ない人物であります。15歳のころベートーヴェンに感動し、音楽家を志ざすこととなったのでした。

彼の人格はかなりのわがまま、そして過剰なほどの自信家で、後に自分は音楽史上まれに見る天才で、自分より優れた作曲家はベートーヴェンだけだ、と公言するほどだったといいます。


1831年、18歳の時にライプツィヒ大学に入学、哲学や音楽を学びました。1833年にヴュルツブルク市立歌劇場の合唱指揮者となり、歌劇作曲家を目指しましたが芽は出ませんでした。


若いときは偽名を使って自分の作品を絶賛する手紙を新聞社に送ったり、パーティーで出会った貴族や起業家に「貴方に私の楽劇に【出資】する名誉を与えよう」と手紙を送ったりしたらしいです。これに対する拒否の返事が届くと攻撃的な返事を返したといいます。また、彼は常軌を逸する浪費癖の持ち主で、若い頃からかなりの贅沢をしていたそうです。支援者から多額の借金をしては踏み倒したり、夜逃げをしたりしていました。


1836年女優のミンナ・プラーナーと結婚、1839年パリへ夜逃げし、小説や歌劇を書きましたがこれが認められることはありませんでした。失意の内に1842年ドイツに帰り、ドレスデンにてパリで作曲した歌劇を上演してようやく注目されるようになりました。1845年には「タンホイザー」、1848年には「ローエングリン」を作曲し、好評を博すようになったそうです。


世間に認められるようになってから数人の女性と交際するようになり、特にチューリヒで援助を受けていた豪商ヴェーゼンドンクの妻マティルデと恋に落ち、不倫関係となりました。正妻のミンナ・プラーナーとは別居。この不倫の恋は「トリスタンとイゾルデ」のきっかけとなりました。


1872年、ワーグナーが長く夢見てきた彼自身の作品のためのバイロイト祝祭劇場の建築を始めました。1874年に「ニーベルングの指環」を完成。劇場は1876年に完成し、「ニーベルングの指環」を初演しましたがワーグナーはひどく失望。再度の上演を強く望んだものの、おもに多額の負債のため、生前には果しえませんでした。


1883年2月13日、ヴェネツィアへの旅行中に以前から患っていた心臓発作により他界しました。



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